戦国武将シリーズ 第五弾


おはこんばんちは。小林です。
今回の戦国武将シリーズは前回の竹中半兵衛とともに豊臣秀吉を支えたもう一人の名軍師についてお話したいと思います。

『黒田官兵衛』

1546年播磨国(現在の兵庫県)の姫路で生まれました。実名は「黒田孝高」という。
1567年22歳の時に櫛橋伊定の娘「光姫」を正室とし、生涯側室を持たず一人の女性を愛したことで有名です。
1570年代、織田が勢力を拡大してきたため、織田軍につき豊臣秀吉の配下となりました。
1577年中国征伐で、黒田官兵衛は敵軍につかまり幽閉されてしまいます。官兵衛が寝返ったと信長が怒り、官兵衛の息子を殺せと秀吉に命じます。一年後に官兵衛を救出しますが、息子を殺してしまったと、信長と秀吉は泣いて詫びます。
ですが、実はもう一人の名軍師「竹中半兵衛」が官兵衛の息子を殺さずに匿っていたというのです。匿っている最中に半兵衛は病死してしまいます。官兵衛は半兵衛への感謝の気持ちを忘れないために、竹中家家紋「餅紋」を使うようになったと言われております。
1589年官兵衛は出家して「如水」と名乗るようになります。
1604年59歳で死去。

とまぁこんな感じで、豊臣家臣二人の名軍師のうちの一人黒田官兵衛でございました。
まだまだたくさん話したいことはありますが、今日はこれくらいにしときます。
( ´Д`)ノ~バイバイ


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